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伯耆の「たいこうがなる」   眞田廣幸さん

2020年11月21日

 羽柴秀吉が鳥取城を攻めていたころ、東伯耆(鳥取県中部)で何が起きていたか―をテーマにした鳥取県埋蔵文化財センターの講座が11月21日、鳥取市であり、講師の眞田廣幸さん(倉吉文化財協会長)が、伯耆にも「たいこうがなる」があったことや羽衣天女伝説にモデルがいたことを明らかにしました。今後の成り行きが注目されます。
 秀吉の因幡攻めは、天正8年(1580年)と同9年の2度ありました。それぞれ4カ月ほどの滞陣でした。第1次は鹿野城を攻めて人質を奪い、鳥取城主の山名豊国を降伏させて姫路へ引き返しました。2度目の攻撃は私部城(八頭町)を拠点に因幡に攻め入り、鳥取城を包囲して兵糧攻めを進め、わずか1カ月ほどで餓死者が相次いだといいます。世に言う〝渇殺・鳥取城〟です。
 その鳥取城の救援に向かったのが吉川元春です。しかし、秀吉軍に制海権を奪われたうえに、東伯耆では羽衣石城(湯梨浜町)を拠点にする南条元続らの抵抗で進撃を阻まれます。三徳山では吉川・南条両軍の合戦が日中3度に及んだといいます。
 秀吉は鳥取城落城の翌日、南条らの救援に向かいます。吉川軍は馬の山に陣を張り、決戦に備えましたが、秀吉は羽衣石城近くに1週間ほどいて、戦うことなく、姫路に帰陣したといいます。その後は備中高松城の水攻め、本能寺の変へと舞台は転回していきます。
 ところで、問題は秀吉が吉川軍と対陣したのはどこかということです。通説では伯耆一宮・倭文神社近くの御冠山ということになっていますが、これまでの現地踏査では陣構えの痕跡が見つかっていないということです。一方、羽衣石城そばの十万寺には、鳥取の太閤ケ平と同じ規模の主郭(東西70m、南北50m)を備えた陣跡があり、地元の人は「たいこうがなる」と呼んでいるそうで、眞田さんは「十万寺の古城こそ、秀吉本陣だったのではないか」と見ています。伯耆にも「たいこうがなる」があったということになれば、羽衣石城の史跡化調査に弾みがつきそうです。
 次いでながら、羽衣石城は巨石の山にあります。1366年、南条の始祖・貞宗が築造しました。眞田さんによると、陰徳太平記に貞宗は天の羽衣の生まれ変わりという伝承があるそうです。その孫の元続は、織田と毛利の和睦後、打吹山城(倉吉市)に移りますが、関ヶ原の戦いでは西軍に属し、所領を失います。羽衣石城と打吹山城の主郭(東西70m、南北25m)は、ほとんど同じ規模、構えだったといいます。
 民話「羽衣石の天女」は、羽衣石山に天女が降り立ち、岩に羽衣をかけたのが始まりです。やがて天女は昇天し、子どもたちが「母さん恋し」と、太鼓を打ち、笛を吹きならしたのは打吹山でした。南条氏の盛衰記が民話となって語り伝えられているようです。

真田廣幸さん

盛況の「まいぶん講座」

鳥取の昔話・羽衣石の天女(切り絵は紙原四郎さん作)

東伯耆の主な城郭跡

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