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明治の韋駄天長之助    小山冨見男さん

2020年7月25日

 智頭町ゆかりの日本初のマラソン大会優勝者・綾木長之助展が鳥取市の仁風閣で開かれています。これを記念して7月25日、鳥取地域史研究会長の小山冨見男さんが「明治42年の韋駄天(いだてん)長之助」について講演し、郷土の偉人を紹介しました。同展は11月1日まで。
 綾木長之助(旧姓金子、1883~1969年)は岡山県西粟倉村坂根の出身です。若いころは地元の郵便局で逓送人となり、志戸坂峠がある大原―智頭間(往復延べ9里)を走って郵便を運んでいました。鳥取40連隊に入隊したころは、砂丘での演習の行き帰りに仁風閣があるお堀端を先頭切って走り、だれもが認める健脚だったそうです。これにちなんで仁風閣は長之助展を開きました。
 略歴によると、長之助は除隊後、1909年の日本初のマラソン大会・神戸―大阪間20哩(マイル)長距離走に在郷軍人として出場し、2位に5分近い大差をつけて優勝しました。3年後のストックホルム五輪への出場が期待されましたが、長之助は智頭町八河谷の綾木家に婿養子で入り、走ることをやめて農林業に専念しました。
 ストックホルム五輪は日本にとって初参加の五輪です。マラソンにはNHK大河ドラマ「いだてん」のモデルになった金栗四三(1891~1983年)が出場しました。98人がエントリーし、完走したのは35人、死者1人という過酷なレースでした。金栗もコースを間違えて行方不明になり、ゴールしたのはなんと1967年でした。54年8カ月6日ぶりのゴールで大きな話題になりました。
 さて、日本初のマラソン大会、長之助の走りっぷりはどうだったのでしょう。小山さんは主催者・大阪毎日新聞の記事や長之助の回顧録をもとにレースを再現し、実況放送さながらに講演しました。ちなみにエントリーしたのは408人、書類審査、予選競走会を経て20人が出場しました。
 それによると、長之助は勢いよく飛び出しましたが、すぐに抜かれて7位に後退します。草履の緒が切れたものの、知人の激励で盛り返して2位に浮上。西宮で1位になると、ますます元気になり、地元選手への大声援を味方にして決勝点の西成大橋に飛び込んだそうです。
 長之助に贈られた賞金は300円。いまのお金に換算すると100万円くらいか。優勝旗2本のほか、副賞は韋駄天の絵、清酒、椿油、洋皿など、どっさり52点。さらに市中パレード、ホテルでの大祝宴が待っていたそうです。日本初のマラソン大会は新聞社の販売促進策としてスタートしたといいます。
 小山さんは「長之助が五輪を走っておれば、好成績が残せたかもしれませんが、綾木家の財産を増やしました。金栗は五輪の失敗を反省して箱根駅伝をつくったりしました。ともに、それぞれの韋駄天人生をよく生きたと思います」と話していました。

小山冨見男さん

左から4人目が綾木長之助(智頭町歴史民俗資料館蔵)

個人名が入った優勝旗(智頭町教育委員会蔵)

綾木長之助展のポスター

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