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伯耆国たたら物語           杉原幹雄さん

2019年3月12日

 近代稲作農業の父・中井太一郎の顕彰を進める倉吉市の小鴨シニアクラブ協議会(北村隆雄会長)は3月12日、小鴨公民館で「地域をおもしろく」講座を開き、「伯耆の国たたら顕彰会」などで地域づくりを進める杉原幹雄さんから「太一車」の基礎になった奥日野と東伯耆のたたら物語を学びました。
 杉原さんは明治期まで日本の鉄生産を担ってきた奥日野や中国山地のたたらの歴史を紹介するとともに、砂鉄や木材を大量に使うたたら製鉄の仕組みを解説しました。「伯耆国たたら顕彰会」のこれまでの調査で、日野郡など西伯耆で500カ所余りのたたら遺跡を確認しており、木炭を求めてたたら場がひんぱんに移動したこと、砂鉄採取のためのかんな流しで、あちこちの山が手作業で崩されたことも紹介しました。
 それによると、江戸時代の日南地区ではかんな流しで新田の造成が進み、元禄のころ9,820石だったコメの生産量が、幕末には13,541石、1.4倍に増えたといわれています。また、たたら製鉄は土木や運送など多くの人手が必要で、かつての日野郡は住民の3人に2人まで、たたたら関連で生計を立てていたそうです。
 ただ、日本の近代国家建設に伴い、鉄づくりは鉄鉱石と石炭の洋式製鉄に移ります。奥日野の鉄づくりは日野町根雨の近藤家に集約され、近藤家は伯耆町二部に近代工場・福岡山鉄山を整備し、かつてない鉄生産量で日露戦争などを支えましたが、コストの安い八幡製鉄所の本格稼働で、大正10年についに工場を閉じました。地域経営の先頭を走ってきた近藤家は、鉄づくりをやめた後も農地造成、製炭、製薬(木酢液)などで地域を支えてきましたが、苦労の連続でした。
 さて、奥日野の鉄づくりの歴史は、鳥取・島根県境の船通山を舞台にしたヤマタノオロチ神話を起源に、鎌倉時代の印賀鋼生産などへ発展していきますが、倉吉市関金町の小鴨川・矢送川流域も奈良時代から有数の鉄生産地だったことが知られ、小鴨氏など有力氏族のもとで多くの鋳物師集団がいたといいます。この鉄文化が稲扱き千歯などの農機具製造をもたらし、倉吉の千歯は幕末から大正期にかけて全国市場を席巻する勢いでした。その延長線上で誕生したのが中井太一郎考案の水田中耕除草機「太一車」です。稲作の雑草取り、腰を曲げての重労働から農家を解放し、増収をもたらしました。
 杉原さんは「伯耆国のたたらの歴史や物語を生かして、太一郎の顕彰や大河ドラマ化の運動を進めていただければ、ありがたい」と、地域づくりの連携を呼びかけていました。

 ※写真上:杉原幹雄さん

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