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鳥取初のマラソン大会          小山富見男さん

2019年1月22日

 鳥取市文化センターで1月22日、鳥取市民大学「郷土の歴史」講座があり、鳥取地域史研究会の小山富見男会長が「明治・大正期の鳥取のマラソン」について話しました。約50人が受講し、日本や鳥取のマラソン大会のルーツを明治・大正当時の新聞記事で探りました。
 「マラソン」と銘打った日本初の大会は、1909年(明治42年)の神戸大阪間20哩長距離大競走です。参加申込み約400人の中から書類審査、予選を勝ち抜いた上位20人で競い、見事優勝を果たしたのが、智頭町にゆかりのある綾木(旧姓金子)長之助でした。序盤7位と出遅れ、わらじの鼻緒が切れるトラブルに遭いながらも、最後は2位に約5分の大差をつけての圧勝だったといいます。
 長之助は岡山県西粟倉村出身。大会後に智頭町の綾木家の婿養子となります。大会に優勝したことで、1912年のストックホルム五輪のマラソン代表候補に選ばれますが、家族の反対もあって出場を断念。その後、走ることを一切やめたそうです。小山さんは「ストックホルム五輪に出場した金栗四三に引けを取らない脚力の持ち主。五輪に出場していればすごい成績を残していたのでは」と残念がっていました。
 神戸大阪間マラソン大会をきっかけにマラソンブームとなり、大会の翌年には鳥取でも初のマラソン大会「マラソン大競走会」(因伯時報社、帝国軍人教育会山陰支部主催)が開かれました。鳥取~河原間の往復のコース(裁判所~古海・味野~河原(折り返し)~円通寺・叶~鳥取中学校(現鳥取西高校))。75人が参加し、優勝は智頭町の江見治作、賞金は30円だったといいます。今の金額にすれば、10万円くらいになるそうです。
 その後、鳥取では学生や小学生のマラソン大会などが相次いで開かれました。1919年(大正8年)には因美線の鳥取―用瀬間の開通を記念した「鳥取―用瀬間マラソン競争」があり、中原正久(東伯郡倉吉町)が優勝しました。小山さんによると、この大会では脱落者が多かったこともあって、体力、素質の向上のため食物の研究が必要であるとの記事があったことを明かしました。また、大会には学生の参加も期待されていましたが、学期試験と重なり、鳥取中学校のみの参加となったエピソードも報告しました。
 小山さんは「当時の新聞記事だけではわからない部分も多い。情報提供をお待ちしています」と呼びかけていました。

 ※写真上:小山富見男さん

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