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温故知新               清末忠人さん

2018年10月09日

 鳥取市民大学の社会講座「袋川今昔物語」が10月9日、市文化センターであり、自然に親しむ会の清末忠人会長が講演しました。鳥取市の歴史を見つめてきた袋川は久松山とともに市民のシンボルです。清末さんは「袋川を守り育ててきた人たちがいた。そんな先人をたたえ、後に続かなければなりません。温故知新が大切です」と訴えました。
 袋川は扇ノ山が源流。国府町の雨滝、殿ダム、宮ノ下を経て鳥取市の中心市街地を抜け、浜坂で千代川とつながる一級河川です(28.4km)。鳥取市街地の部分は人工につくられた川で、まちの発展に合わせて3度、その河道を変えました。
 最初は関ケ原の戦いの後、鳥取城に池田長吉が入り、久松山下の沼沢地を整備し、鳥取市役所~醇風小学校に堤を築いて城下にしました。その後、池田光政が32万石で姫路から移ってきますが、6万石の長吉の城下では収まらず、外堀となる袋川を南に下げました(吉方~出合橋、全長1・6km、幅12.6m、深さ6.3m)。これが今の袋川の原形です。
 ところが、扇ノ山山系の雨水がすべて流れ込み、千代川の逆流もあって、鳥取のまちはしばしば洪水に見舞われ、江戸時代だけでも大洪水が70回ほどあったといいます。大正時代になって千代川改修の機運が高まり、それに伴い袋川には昭和8年、放水路になる新袋川(大杙~千代川、3.3km)が新設されました。千代川の改修が終わったのは昭和50年、鳥取はやっと水の脅威から解放されました。
 鳥取市民は水と闘い続けながらも、袋川を物資輸送に活用し、屋形船などを浮かべて楽しみました。堤には桜を植え、大正時代には小学生が分担して若桜橋~湯所橋まで360本の苗木を植えました。「花のトンネル一里の桜」と言われる市民自慢の桜土手に発展しました。その桜土手には今、200本余りの桜がトンネルをつくり、久松山や布勢公園などとともに、鳥取を代表する桜の名所になっています。
 桜土手がここに至るまでは長い道のりでした。昭和27年の鳥取大火です。大半の桜の成木が焼けてしまい、戦後間もない市民には桜をよみがえらす気力がありませんでした。これを救ったのが鳥取大学OBの故・瀬川弥太郎さん。昭和35年ごろから毎年桜の苗木を匿名で送り続け、その数800本、桜土手が復活しました。
 分水で流量が減った袋川は、鳥取大震災や鳥取大火のたびに汚染が進みましたが、鳥取青年会議所の鯉の放流など地道な美化活動が続いて、かつての清流を取り戻しました。清末さんは「桜の寿命は50年ほど。先人のように大切に育て、補植しなければ、桜土手は守れません。日進小学校近くでは鯉の稚魚が元気良くはねるようになりました。市民の誇りを守り、発展させていくのは、今を生きる私たちの務めです」と話していました。

 ※写真上:清末忠人さん

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