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国づくりの神が疫病神?   田中文也さん

2020年11月14日

 世界でコロナウイルスが猛威を振るっていますが、古代の日本に疫病を持ち込み、広めたのは、国づくりをした大国主命だった―。米子市のふれあいの里で11月14日、山陰古代史研究会があり、会を主宰する田中文也さんが「疫病と大国主命」について講演し、そんな持論を紹介しました。
 田中さんは中国全土を統一した秦(紀元前221~同206年)の方術士・徐福(生没年不詳)の研究を続けています。史記によると、徐福は始皇帝の命を受けて、紀元前219年と同210年、2度にわたって東方の国へ不老長寿の霊薬を求めて旅立ったといいます。3千人の若い男女と多くの技術者を従え、五穀のタネなどを持って出かけましたが、秦には戻らず、そのまま「平原広沢」を得て王になったと伝えられています。日本各地には、その徐福の伝来地が数多くあります。
 しかし、田中さんはこれまでの研究で、徐福が王になったところは中海・宍道湖周辺だったと見ています。大国主命と呼ばれました。青谷上寺地遺跡や妻木晩田遺跡など山陰の弥生時代の繁栄ぶり、大国主命と少彦名命にちなんだ「神無月・神在月」伝承などが根拠です。
 田中さんによると、徐福(大国主命)は連れてきた若人や工人たちと全国各地を回り、稲作技術や青銅器・鉄器づくりなどを伝え、山陰・出雲に返ったといいます。併せてそれまで存在しなかった疫病や寄生虫も全国各地に持ち込み、広げました。青谷上寺地遺跡からは結核が原因で背骨が溶け、変形する脊椎(せきつい)カリエスに侵された人骨が出土しています。
 徐福(大国主命)やその子孫たちの国づくり指導は200年、300年と延々と続いたことでしょう。8世紀に完成した「古事記」や「日本書紀」には、崇神天皇(3世紀後半)のころに疫病が流行し、国民の大半が死んだと伝えています。日本最初の伝染病(感染症)の記録です。崇神天皇は奈良・三輪山に大国主(大物主)をまつり、疫病を鎮めたといいます。この故事にちなんで、ゆかりの大神神社や狭井神社では、毎年4月18日に「花鎮祭」を開き、疫病除けの神事が続いています。
 一方、日本各地には「田の神様」伝承が根づきました。さんばいさま、亥の子さま、幸神さん、道祖神、歳の神など愛称いろいろ。「田の神様は春になると山から下りてきて、秋になると山に戻っていく」「田の神様は春になると出雲からきて、秋になると出雲に戻っていく」などと言われています。これが「神無月・神在月」の由来、大国主が「大黒様」や「大黒柱」として親しまれ、国津神と呼ばれたゆえんです。
 田中さんは「秦の始皇帝をだまして渡来した徐福(大国主命)は、日本の国づくりに励み、やがて先住の縄文人(天津神)に国譲りするわけですが、福の神でもあり、祟り神でもありました」と紹介していました。

田中文也さん

大国主命(白兎神社)

2つの俵を飾る奥能登の「あえのことまつり」

結核で変形した脊椎カリエスの人骨(青谷上寺地遺跡のホームページから)

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