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2020年8月20日
新型コロナウイルスで延期していた米子市・車尾公民館の生涯学習ふれあい学級が8月20日開講し、地元作家の廣澤虔一郎さん(同人誌・米子文学代表)が「車尾の歴史」について話しました。このなかで廣澤さんは「吉川広家が古代の郷名・半生を米生に書き改めたのが米子命名の始まりではないか」と持論を紹介しました。
平安時代の百科事典・和名抄によると、古代の伯耆は河村・久米・八橋・汗入・会見・日野の6郡あり、会見郡には日下・細見・美濃・蚊屋・千太・会見・半生・安曇・巨勢・星川・天万・鴨部の12郷ありました。鳥取県史には、それぞれの郷があった会見郡郷推定図を載せています。境は「夜見の嶋」と呼ばれ、平安時代に弓浜半島でつながったそうです。
このうち、会見郷や半生郷が今の米子市の中心地として発展していきます。角川日本地名大辞典によると、半生(はにゅう)郷の由来は米子市美吉の飯生(いいけ)村が遺称地で、瓦や土器になる粘土が出土していたからではないかと指摘しています。しかし、半生は米生(よねう)の誤記で、米の生産が盛んだったことが由来とする意見もあります。
粘土か米か。廣澤さんは「確かな根拠はないが、米子湊山に築城し、月山冨田城から本拠地を米子城に移した吉川広家が、半生をわざと米生と書かせたのではないか」と推理しています。「正しく美しい文字が書ける筆順字典」(吉田琴泉編著)によれば、「半」を崩し文字の草書体で書けば、楷書と一部筆順が違うため、「米」にも読めるのです。湊山への築城の際には、大山寺の名僧・豪円和尚の祈祷もあったと伝えられており、「好字」への変換があったとしても不思議ではありません。
廣澤さんは車尾の大庄屋で日野川の治水や新田開発に尽くし、池泉観賞蓬莱式庭園で有名な深田氏の歴史も紹介しました。
それによると、深田氏は鎌倉時代に近江から奥日野の印賀に移り、やがて米子市上新印で豪農になったといいます。深田家には後醍醐天皇が隠岐島に流される際、立ち寄られたという逸話が伝わっています。その時の天皇を乗せた小車(尾車)にちなんで、車尾という地名が付いたともいわれています。が、できすぎた話です。天皇は安来港から隠岐島に渡っておられるので、安来港までは天万―荒島を結ぶ古道が使われたとようです。天皇が深田家に立ち寄られ、くつろがれたのは、上新印の館と庭園だったのではないかといいます。
このほか廣澤さんは、車尾が弓浜部や弓浜半島の水源「米川」の起点になっていることや、日本有数のうまい水「米子の水」を届ける市水道局の水がめになっていることなど、ジゲの自慢話も紹介しました。