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古民家で学ぶ西伯耆のお城   奥日野ガイド俱楽部

2026年9月19日

 奥日野ガイド倶楽部(代表佐々木彬夫さん)主催の「古民家塾」が9月19日、鳥取県日野町舟場の古民家沙々樹でありました。江戸後期建築の国登録有形文化財で柱や梁、囲炉裏等は当時のものです。米子市立山陰歴史館館長中原斉さんが「日野の城を学ぶ~西伯耆の中世城館について」のテーマでお話しされました。高校生の時にアルバイトで参加した尾高城の発掘から50年、お城は中原さんのライフワークです。
 まずは城ってなに?多くの方は天守閣、石垣、水堀があるものをイメージしますが、これは主に江戸時代のお城です。弥生時代の遺跡にも集落を堀で囲んだところがあり、これがお城の始まりと言われています。お城は時代とともに役割や建造様式を変えてきました。
 鳥取県内では504の城が確認されていますが、うち江戸時代のお城は鳥取城と米子城のみ。一方、国境の日野郡には82あり、国を守る戦の時に立て籠るためのもので、一般的にはお城で生活していたわけではないそうです。
日野のお城を俯瞰すると、中世前期か空堀・土塁を方形に巡らした単郭方形館の城が大山山麓に点在し、戦国時代まで使われていました。
 江美城は米子城(吉川広家)の支城として石垣や金箔鯱瓦で整備されましたが一国一城令で破城されたと考えられています。尼子氏の月山富田城攻略を目指す毛利軍が蜂塚氏の江美城を攻略、「江尾十七夜」として今でも十七夜火文字やこだいぢ踊りが続いています。
 黒坂城は中村氏改易(お家取り潰し)後、関一政が日野(6万石)支配の拠点として整備、関氏改易後は廃城となりますが池田氏因伯32万石支配の拠点として福田氏に黒坂の自分手政治を委ねられました。なぜ着座家ではない番頭(ばんがしら)格の福田家なのか明らかではないですが、同格であったと想定されています。
 亀井山城(生山城)は日野山名氏の日野本城かもしれません。尼子・毛利(吉川)らが出雲、備後、備中との国境を守るために重視した城、奥日野の鉄の確保や銀山の開発のため重要な地位にあったと思われます。
 このほか、尾高城の城主の変遷、構造の変遷や重要性、米子城の築造の経緯等を詳しく説明されました。
 集まった皆さんはお城のファンで中原さんの説明にうなづいたり、驚いたりと有意義な講演でした。「断片的な知識が系統立ち理解が深まった。分かりやすい説明だった」と満足そうに感想を述べる方もいました。

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