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伝「鎌倉十七の墓」は誰の墓   鳥取民俗懇話会内田克彦さん

2024年4月14日

 鳥取市富安のさざんか会館で4月14日、鳥取民俗懇話会内田克彦さんの講演『伝「鎌倉十七の墓」について』がありました。
 鎌倉十七とは、鳥取藩池田光仲に仕えた高名な力士です。鎌倉の勧進相撲で手柄を顕わした者で、本名を畔柳左茂右衛門といいます。当時17歳であったことから鎌倉十七と言われました。鳥取市立川町の臨済宗妙心寺派広徳寺には、十七の墓と伝承されている墓があり、内田さんはそれを確かめるために、丹念に史料を調査しました。
 墓石には「俗名鎌倉生縁清水五六左衛門尉重長」とあり、鎌倉十七の本名は清水五六左衛門であるとしています。
まず内田さんは、近世鳥取藩の動向を知る基本的な史書である「因府年表」には、寛文6年(1666)の記述に「初御抱の力士にて、清水ことは、畔柳又鎌倉十七と称す」とあり、合致します。続けて「因伯大年表」には「清水五六左エ門畔柳又は鎌倉七(ママ)ト云フ、天下無双の力士ニテ日下開山ト呼ブ、因候ニ召抱ラル、墓ハ廣徳寺ニ在リ」とあり、広徳寺にある墓は鎌倉十七の墓であることが確かなように思えます。鳥取県史や鳥取県郷土史はこの内容に基づき書かれています。
ところが、寛文5年の「組帳」と「御支配帳」に、この定説を覆す記述を確認しました。鎌倉十七(畔柳左茂右衛門)と清水五六左衛門が別人として記されていたのです。組帳には「一 百三拾石 畔柳左茂右衛門」、御支配帳には「一 三拾俵 清水清水五六左衛門」とあったのです。1943年に刊行された「樗谿配神池田光仲公」には「鎌倉十七と清水五六左衛門としてあるのは明かに誤です」と記録されていることも確かめましたが、鎌倉十七の墓であるとの説は今日まで定着していました。
内田さんは「史実の確認は元の記録までかえって当たらなければならない」といいます。そして「次は、鎌倉十七の墓を探すこと」に取り組まねばと言われていました。
私たちが事実と認識している歴史上の出来事も、史料を丹念に調べると異なることが明らかになるかもしれません。

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