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古井喜実と矢部貞治           内田克彦さん

2019年12月17日

 鳥取市民大学の歴史講座が12月17日、市文化センターであり、地域史研究家の内田克彦さんが「鳥取県人が日本国憲法を作った!?」と題して、県出身の政治家・古井喜実さんと学者の矢部貞治さん(いずれも故人)2人の活躍を説きました。
 古井喜実(1903~1995年)は旧国中村(八頭町)生まれ。鳥取中学―三高―東京帝大を経て、内務官僚になります。茨城県や愛知県の知事を歴任し、内務次官に上り詰めたものの、敗戦。1952年から衆議院議員(通算27年間)に転じます。厚生・法務大臣を務め、生ワクチン輸入や日中国交正常化などで活躍しました。東京都名誉都民、八頭町名誉町民。
 矢部貞治(1902~1967年)は旧美穂村向国安(鳥取市向国安)生まれ。鳥取中学―一高―東京帝大を経て、政治学者になります。近衛文麿のブレーン、拓殖大学総長、中曽根康弘の相談役などを務め、「矢部貞治日記」(読売新聞社刊)は日本の政治史研究に欠かせない資料として知られます。旧姓横山。
 2人は中学時代の同級生です。恩師の林重浩校長から「矢部は政治家になれ、古井は学者になれ」と諭されていたそうですが、それぞれ真反対の道を歩きました。
 2人はそれぞれの立場で、日本の敗戦―ポツダム宣言受諾を履行するため、大日本帝国憲法改正案づくりを始めます。古井は幣原内閣の憲法問題調査委員会の嘱託となり、松本蒸治大臣の憲法草案づくりを支えました。ただ、松本試案は保守的すぎるとしてGHQから拒否されてしまいます。古井は改正の目標に「政治の徹底的民主主義化を図ること」を掲げましたが、未完稿で終わりました。
 矢部は敗戦の翌年、①平和国家の建設②人権の保障③民主国家の建設―などの建国綱領案を発表し、このなかで「民主集中の象徴者、民族文化の保持者として天皇制の維持」を打ち出して注目されました。結局、憲法改正案はGHQのリードで象徴天皇、国民主権、戦争放棄を盛り込んで作成されました。
 新憲法は1946年11月3日に公布され、その半年後の5月3日から施行されました。いらい70年余り、新憲法は国民投票されることなく運用されてきました。新憲法制定10年を機に憲法調査会が発足し、長時間をかけて憲法の見直しがありました。その調査会で矢部は副会長、古井は運営委員として切り盛りしました。
 回顧録によると、古井は「現行憲法の内容には優れたところがある。自由主義と民主主義の飛躍的・画期的な前進は、押しつけ憲法なればこそ実現を見た」、矢部も「私自身は改正不要論だ。防衛予算も年々可決されている。このことは立法権も行政権も自衛隊を合憲と認めて運用していることを意味する」と、それぞれ評価しています。内田さんは「古井と矢部、鳥取県人の2人が2度にわたって国の形づくりに尽くしたことを誇りにしたいものです」と話していました。

内田克彦さん

古井喜実

「古井喜実と中国~日中国交正常化への道」(鹿雪瑩著)

矢部貞治

矢部貞治日記

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