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船上山・大山・三徳山           眞田廣幸さん

2018年10月21日

 琴浦町箆津にある国指定重要文化財の河本家住宅で、恒例の秋の公開イベントがありました。テーマは「山岳仏教と船上山」。名和長年関連の書画や大山・船上山の油絵などが展示され、文化講演会もありました。10月21日は倉吉文化協会会長の眞田廣幸さんが「伯耆国の山寺 船上山と大山、そして三徳山」について話し、それぞれの謎を報告しました。
 いずれの山も伯耆の山岳信仰の聖地です。三徳山(美徳山、標高900m)は706年、修験道の開祖・役小角が開いたとされ、奈良時代の初めには赤衣上人が船上山(標高616m)、大山(火神岳・伯耆大山、標高1729m)には金蓮上人が大山寺をそれぞれ開きました。大山寺は今年、開山1300年になりました。
 山岳信仰は平安時代に盛んになり、大山寺は106坊、僧兵3千人を数えたといいます。三徳山、船上山にも数多くの坊舎があったといいます。ただ、いずれも戦乱でことごとく消失しました。とくに大山寺は中門院・南光院・西明院の内部抗争が絶えませんでした。その大山寺を復活させたのが豪円僧正。江戸時代に西楽院を設け、寺領3千石(3院42坊)を回復しました。江戸時代の三徳山・三仏寺は100石、船上山は寺領がなかったといいます。
 船上山は大山外輪山の一角で、延々と屏風岩が連なる天然の城塞です。1333年、天皇親政を目指す後醍醐天皇が隠岐島を脱出し、名和長年に迎えられて、ここに立てこもり、鎌倉幕府討幕の兵をあげたところです。このとき大山寺からは700人ほどの僧兵がはせ参じたと伝えられています。
 眞田さんは「出雲国風土記」「大山寺縁起絵巻」「伯耆民談記」などをもとに、それぞれの山の特徴や違いなどを紹介しました。それによると、同じころにできた3山ながら、大山の地蔵信仰が修験者や聖によって全国展開したのは、大山寺5大名僧のひとり、天台密教の高僧・基好上人の指導力によるものと指摘しました。また、大山寺は廃仏毀釈で寺号が廃絶されますが、明治36年に復活したのは後醍醐天皇への大山寺僧兵の加担が明治政府に評価されたからだったといいます。
 眞田さんは新たな謎についても報告しました。三徳山の文殊堂や地蔵堂の岩場にも岩窟が存在していることが分かったそうです。中部地震に伴い、投入堂参拝登山道を調査していて見つかったもので、そこに何がまつられているのか調査が待たれるといいます。また、船上山も天皇の行宮跡が不明のままといいます。船上神社から5kmほど離れたところに天皇屋敷と伝わるところがあるそうで、その所在地探しが船上山研究に欠かせないテーマになっていると指摘していました。

 ※写真上: 眞田廣幸さん

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