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鳥取県には家持も憶良もいた        根鈴輝雄さん

2018年9月22日

 因幡守で日本最古の歌集・万葉集を編集したとされる大伴家持の生誕1300年にちなんで、鳥取市の因幡万葉歴史館で万葉集講座が開かれていますが、9月22日に2回目の講座があり、倉吉博物館長の根鈴輝雄さんが「万葉歌人 山上憶良の歌と治政」について講演しました。40人余りが聴講しました。
 山上憶良(660~733年)は42歳の時、遣唐使書記に選ばれて貴族の仲間入りを果たしますが、なかなか出世に恵まれず、やっと57歳で一国一城の主、伯耆守となり、67歳で筑前守となります。筑前守時代、上司の大宰府長官・大伴旅人(家持の父)と交友を重ね、歌づくりに励みます。都に帰ったのは72歳の時。各地で見聞きした民衆の困窮ぶりを訴える「貧窮問答歌」を残しました。
 その問答歌には「風交り 雨降る夜の 雨交り 雪降る夜は すべもなく 寒しくあれば 堅塩を…」とあることから、雪降る伯耆の貧しさを詠んだものではないかという意見もあるそうですが、根鈴さんは「苦労人なので、各地の実情を詠っている」と見ています。
 根鈴さんによると、万葉歌人たちは心情を歌に込めて歌っており、出世の道具でもあったといいます。憶良の歌は子や妻を思いやる気持ちや貧しい人たちの苦しい生きざまを詠んだものが多く、思いを素直に吐き出す歌人だったようです。遣唐使で中国にいるときは「いざ子ども 早く日本へ 大伴の 御津の浜松 待ち恋ひぬらむ」、旅人が帰京する際は「我が主の みたまたまひて 春さらば 奈良の都に 召し上げたまはね」などと歌で訴えています。
 倉吉市は憶良が伯耆守で赴任していたことを記念して南昭和町の児童公園に「しろがねも くがねも玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも」という歌碑を設けていますが、万葉集には憶良の歌が78首収められています。
 憶良は716年、伯耆守として当時国庁のあった不入岡へやってきます。上国の因幡国や伯耆国は職員定数437人と定められていたようで、ここで徴税や都への特産品輸送にあたります。不入岡は国府川そばで低地にあったことから、8世紀後半には高台にあるいまの国庁跡(倉吉市国府、国史跡)に移りますが、根鈴さんは「中国大陸や朝鮮半島の最前線に位置する伯耆国国庁は防御を兼ね備えた場所にあるべき」とする渡唐経験のある憶良の進言を入れて実現したと見ています。国庁、国分寺、国分尼寺は四王寺山に守られるように集中していますが、伯耆国庁の移転は外交政策の一環だったといいます。

 ※写真上:根鈴輝雄さん

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