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鳥取藩は義経役だった?     小山富見男さん

2018年6月01日

 鳥取市の高齢者大学・尚徳大学は6月1日、市文化センターで郷土学習講座を開き、明治維新150年にちなんで小山富見男さん(鳥取地域史研究会長)から「因州藩(鳥取藩)の戊辰戦争とその殉死者」について話を聞きました。約130人が聴講。このなかで小山さんは「明治維新にいち早く加勢した鳥取藩だったが、源義経のように武芸一辺倒で新政府づくりから外れてしまったように思う」と持論を紹介しました。
 戊辰戦争(1868~1869年)は薩摩・長州・土佐藩などを中核にした新政府軍と、旧幕府勢力や奥羽越列藩同盟が戦った内戦。明治元年の干支が戊辰の年だったことからの命名で、鳥羽・伏見の戦い、甲州勝沼の戦い、宇都宮城の戦い、上野戦争、北越戦争、東北戦争、箱館戦争などが主な戦い。
 この戊辰戦争で亡くなったのは13,122人(新政府軍4,843人、旧幕府軍8,262人)。会津藩3,016人、仙台藩1,176人など旧幕府軍が中心で、鳥取藩は92人だったといいます。
 小山さんは前職の鳥取敬愛高校時代、生徒とともに現地を訪ねて、戊辰戦争で亡くなった鳥取藩士の墓地探しを行い、没年、戦死場所、菩提寺などを調べました。その研究の手掛かりになったのが、長瀬村(湯梨浜町)から出陣した農兵・鳥羽久三郎の「道中心覚帳」の宿泊地記録。
 それによると、鳥取藩の東征軍は甲州勝沼(山梨県)で新選組の近藤勇らが率いる部隊と戦い、最初の戦死者が出ています。最も多くの犠牲者が出たのは野州・安塚・宇都宮城(栃木県)の戦いで15人。その1カ月後には上野戦争(東京都)で14人が亡くなっています。野州・安塚の戦いの絵図には、因幡二十二士のリーダーで維新後、初代鳥取県権令(いまの県知事に相当)になった河田景与が抜刀して敵陣に切り込み、形勢逆転した場面が描かれています。
 新政府は戊辰戦争の論功行賞で、薩摩藩と長州藩にはそれぞれ10万石、土佐藩に4万石、鳥取・岡山藩などに3万石を贈り、その功績に報いる一方、旧幕府軍の会津藩は28万石から3万石に減らして青森県の下北半島に移し、仙台藩は62万石から28万石、庄内藩は17万石から12万石にそれぞれ減らすなど厳しく仕置きしました。
 ただ、新政府は藩禄を失った不平士族の反抗に悩まされます。新政府の官吏は8,186人、鳥取藩からはわずか41人しか採用されませんでした。鳥羽伏見の戦いで薩長軍にいち早く加勢し、維新の流れをつくった鳥取藩にとっては不本意な評価でした。
 小山さんは「鳥取藩は武芸を尊び、経済や文化への関心を二の次にしてきた。ちょうど鎌倉幕府ができる際、政権から源義経が外されたが、鳥取藩にもそれに似たものを感じます」と、鳥取藩の気風を残念がっていました。
 
 ※写真上:小山富見男さん

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