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2020年6月13日
青谷上寺地遺跡や妻木晩田遺跡などがある鳥取県は〝弥生の王国〟を誇っていますが、鳥取県には天照大神や神武天皇などもいて、古代史の中心舞台だったと訴える古代史研究グループがあります。その例会が6月13日、北栄町でありました。
倭国古代史研究会(道祖尾義孝会長、28人)で、2019年1月に発足しました。蒜山高原が高天原だったとする学説を支持しています。高天原の比定地は奈良県の葛城、宮崎県の高千穂、富士山などが知られていますが、いずれも日本書記にかかわった藤原一族の創作と一蹴しています。蒜山高原にあるすべての神社で、天照大神がまつられているのをよりどころにしています。
道祖尾会長は蒜山高原が高天原だったとすれば、天孫降臨の地は宮崎県ではなく鳥取県中部だったのではないかと考え、8年かけて各地を踏査し、その成果をネットで紹介(真実の古代史)するとともに、仲間と研究を続けています。
成果のひとつが天照大神は徐福だったとする新説です。徐福は秦の始皇帝に命じられ、不老不死の薬を求めて蓬莱の霊山を目指してやってきます。第1次は紀元前219年、第2次は紀元前210年。そのゆかりの地が日本各地にあります。熊野市(三重県)、新宮市(和歌山県)、佐賀市(佐賀県)、伊根町(京都府)、佐久市(長野県)、富士吉田市(山梨県)など。道祖尾会長は「大山こそ蓬莱山。当時、入江だった北栄町の大島と原に徐福一行は上陸し、天照大神を名乗って葦原中津国(鳥取県中部)の王になった」と推定しています。
徐福に遅れること16年。殷王朝の末裔、朝鮮の準王一族が山陰に進出し、出雲族になりました。出雲族に葦原中津国を奪われた天孫一族は、福山市周辺に拠点を移し、九州平定などを進め、朝鮮半島から鉄を得て、出雲族を征服していったといいます。その足跡が大山周辺や鳥取県中部各地の地名などになって残っています。また、神武東征も藤原一族の創作で、日向に避難していた百済の民を奈良に移したのを隠すトリックだったといいます。
道祖尾会長によると、奈良時代までは全国に120余りの小国があり、倭国もそのひとつで、鳥取県中部のことだといいます。2世紀後半の「倭国大乱」は、葦原中津国や青谷上寺地遺跡の住民が出雲族と戦った史実だったと見立てています。
葦原中津国の中心地・北栄町大島の後ろには四王寺山(倉吉市大谷)があります。「神武天皇の4兄弟が育ったところ」と道祖尾会長は考えています。ふもとの中尾遺跡からは紀元前100年ごろの住居跡が見つかっています。その近くに伯耆国庁が設けられています。白村江の戦いの後、新羅からの攻撃に備えて移転してきたともいわれています。四王寺山には鬼ノ城(総社市)のような古い山城があったのかもしれません。