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2019年8月08日
令和元年2回目の境港楽習会(定岡敏行代表)が8月8日、境港市の老人福祉センターであり、絵はがき収集家の佐々木邦広さん(元境港市教育長)が「写真絵はがきで見る戦前の境港」について話し、受講者は境港の失われた風景と発展する姿に感慨ひとしおでした。
境港は島根半島を防波堤にする天然の良港です。江戸時代は山陰を代表する北前船の寄港地として栄え、日野の鉄や弓浜の木綿などを積み出し、上方から日用雑貨品、北海道から昆布やニシンなどが入ってきました。
その北前船の寄港地(鳥取市、新温泉町、浜田市など)は日本遺産になりましたが、残念ながら境港市は認定されずにいます。佐々木さんによると、昭和10年(1935年)の境町大火と山陰最大の戦災といわれる昭和20年(1945年)の玉栄丸爆発事故で町の大半が焼失し、絵馬などが奉納された餘子神社や大湊神社も焼け落ちて、北前船の物証が何一つ残っていないため、認定されなかったそうです。このことが佐々木さんを絵はがき集めに駆り立てました。
佐々木さんが集めた戦前の境港の絵はがきは、およそ150枚です。境港市史などをもとに写真を調べ、その3分の1をパネル化しました。ほとんどがモノクロで、色あせた小さな写真ばかりですが、佐々木さんは「30分ほどにらめっこしていると、写真の字も読めてくる」そうで、説明文づくりも大変だったようです。
佐々木さんによると、境港で絵はがきが発行されるようになったのは日露戦争のころから。軍事郵便がきっかけになったといいます。明治39年(1906年)に舞鶴―境港を結ぶ阪鶴丸が就航すると、山陰の観光が注目され、明治45年(1912年)の山陰本線・京都―出雲今市間の開通で絵はがきニーズは高まったといいます。
コレクションの中には境港修築の歴史を切り取った絵はがきもあります。島根半島から弓ヶ浜を撮ったもので、入港しようとしている帆船が写っています。明治末から大正半ばごろの写真で、このころは防波堤がなく、台場の先に砂浜が突き出しています。境港は港口に土砂がたまるのが弱点で、1500㌧を超える船は美保関に入るしかなかったといいます。
悲願の防波堤は大正11年(1922年)に着工し、昭和5年(1930年)に完成します。実現の裏には台湾で金山王になった木村久太郎の多大な寄付があったといいます。木村の父・又平も明治の初め、私財を投じて防砂堤建設を進めた人で、親子2代にわたる港づくりが今でも語り草になっています。
鳥取県は明治初めの府県統廃合で廃止―再置の混乱を経験しましたが、再置の際、米子・境の住民から「会見郡は島根県に入れてほしい」という運動がおこりました。その一因には遅々として進まない境港口の防砂問題があったといわれています。