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活動紹介

2017年1月31日

 鳥取市民大学の歴史講座が1月31日、市文化センターであり、シニアバンク登録の徳永耕一さん(八頭郡郷土文化研究会長)が「江戸時代における千代川の活用~いかだ流しと高瀬舟~」について話し、約30人が熱心に聴講しました。
 千代川は智頭町の沖ノ山を源流にする一級河川(56.8キロ)。江戸時代は袋川とともに、その水運が城下町・鳥取の発展に大きく貢献しました。半面、川幅が狭かったため、洪水や氾濫はしょっちゅうで、「因幡の暴れん坊」と呼ばれたほど。大正元年9月には市内水浸しとなり、舟で行き来する事態もあったといいます(写真)。
 徳永さんは千代川で盛んだった「いかだ流し」と袋川の「高瀬舟」について紹介しました。姫路52万石の池田光政が家臣、商人を引き連れて鳥取に入ってきたものの、それまでの6万石の城域では手狭で、新たに外堀(袋川)を開いて、いまの鳥取市を形づくりました。その用材を智頭郡に求め、農閑期の冬場に「いかだ流し」をしたといいます。
 「いかだ流し」は因美線が鳥取-用瀬間に開通(大正8年)するまで続けられ、江戸時代は年間700~800川(1川は5寸角2間×4尺)を流したそうで、その半分は賀露港から但馬や伯耆などへ移送したといいます。いかだは智頭の錦橋周辺で組み、河原で24間~26間の長いいかだにつなぎ直して古海まで運び、1川ずつにして、袋川をさかのぼったといいます。
 袋川には若桜橋・智頭橋・鹿野橋・鋳物師橋・出合橋の5つの橋が架けられ、鹿野橋を中心に芝居小屋や材木・建具・切石・雑貨・はたごなどが並び、川には屋形船なども行き交い、にぎわったといいます。明治時代の終わりごろには川沿いに製糸工場がいくつもでき、県都の発展をもたらしたといいます。
 

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