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日本初の農村看護婦喜久代の功績を後世に   吉田喜久代研究会佐々木美幸さん

2021年11月18日

 昭和初期、日本初の農村保健婦として活躍した吉田喜久代(1914~90)の功績を後世に残すため昨年10月「吉田喜久代研究会」が設立され、今年6月に「使命 吉田喜久代-日本で最初の農村保健婦-」(今井出版)が出版されました。
 稲葉産業組合の田中新次郎組合長は農業の振興を目的とした農業団体でありながら、公衆衛生、母子保健、無医村・無産婆村等当時の劣悪な環境の改善を目指し、喜久代と取り組み始めます。都市部には保健婦はいましたが、農村部にはおらず日本初の農村看護婦の誕生です。昭和初期の農山村部は貧しく、不衛生、母子保健環境等劣悪な状況ですがそれが当たり前という考え方でした。田中と喜久代の理想を世間が認めるまでには様々な衝突が生じます。
 喜久代が東京に勉強に行った際「おそらくあなたは自分の鉄火の気性から、自分を自分で不幸に導くでしょう。今の世の中を満足できるあなたではないと思うから」と言わしめています。鳥取県は彼らの活動から農村保健婦の必要性を認め昭和12(1937)年、全国初の農村保健婦養成機関「社会保健委員養成所」を設立することになります。
 喜久代の日報をまとめた「砂丘の蔭に」が昭和15(1940)年に発刊されるとベストセラーとなり映画化が計画されましたが、戦時下のフィルム統制により実現していません。
 佐々木さんは「私は喜久代と似ている」と言います。病弱で10代半ばで死を意識したという佐々木さん。病院勤務時代、治療は病院で行うことが常識だったときに訪問看護を始めたという佐々木さんと喜久代の人生は重なるところがあります。
 佐々木さんはがんによる闘病生活の中、本が読めなくなっても喜久代に寄り添いたい、「ターミナルで読もう」とパソコンに自分の思いを記録していましたが「私はいずれ死ぬ、喜久代の偉業を残したい」と考えるようになりました。
 しかし、手立てがなく悩んでいるときに友人の四井幸子さんに出会います。四井さんは「碧川かた研究会」でともに活動している内田克彦さんに相談し、本として出版することを決めました。四井さんは「砂丘の蔭に」のコピーを読み込み、判読が難しく、かつ旧仮名遣いの文章を分かりやすい現代文としてまとめる作業に5か月を要しました。内田さんは佐々木さんが書き溜めた文章を章立てし出版物としての体裁を整えました。佐々木さんのことを考えると「時間がない」という思いで、他の仲間とともに取り組まれたそうです。
 佐々木さんは自分の余命は「喜久代に与えられた『与命』」と考えています。喜久代は農村保健婦を「使命」として活動し、佐々木さんは喜久代の偉業を残すことを「使命」としました。その結実が「使命 吉田喜久代-日本で最初の農村保健婦-」です。

佐々木美幸さん(中央)、内田克彦さん、四井幸子さん

「使命 吉田喜久代」佐々木美幸著

「砂丘の蔭に」吉田喜久代著

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