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伊能忠敬の鳥取の足跡       田中精夫さん

2020年1月31日

 鳥取県土地家屋調査士会の東部支部(田中正彦支部長)は1月31日、鳥取市の鳥取法務局前の桐友ホールで研修会を開き、郷土史家の田中精夫さんから江戸時代に実測で日本地図を作った伊能忠敬の功績を聞くとともに、忠敬から測量法を学んだ鳥取藩が「因伯測量之絵図」などを仕上げ、農政改革に役立てたことを学びました。
 伊能忠敬(1745~1818年)は佐原村(現・千葉県香取市)の資産家です。49歳で家督を譲り、江戸で天文学を学びました。地球の大きさに関心を寄せ、それを知るには子午線1度の距離が必要になり、算出のため、江戸から蝦夷地まで測量して歩きました。この体験をもとに全国測量に乗り出します。測量は55歳から71歳まで、10次17年間続きました。歩数はざっと4千万歩に及んだといいます。
 測量は実測と方位と角度を調べたうえで、天体観測で誤差を修正する方法で、科学的で精巧なものだったといいます。忠敬の没後、門下生たちの手で日本史上初の日本地図「大日本沿海輿地全図」が作成され、幕府に献上されましたが、その出来栄えは今日の日本地図とほとんど同じで、明治時代の半ばまで使用されたそうです。
 田中さんは教員時代、忠敬の足跡をたどる日本一周イベント「伊能ウオーク」を知り、鳥取での忠敬の足跡調査にのめり込みました。「伊能忠敬測量日記」をもとに、忠敬が歩いた道や宿などを訪ね、資料を集め、20年余りかけて令和元年に「忠敬、鳥取を測る」という本を出版しました。
 それによると、伊能隊は1806年秋と1813年冬の2回にわたって鳥取藩を測量したそうです。1回目は米子・境港―赤碕―橋津―青谷―鳥取―浦富の海岸ルート、2回目は米子・根雨―大山寺―倉吉・関金―三徳―鹿野―鳥取―智頭の山間地をめぐり、他藩よりも細密な藩地図を作成しています。
 その過程で鳥取藩の加藤主馬や竹内利兵衛らは忠敬から測量法を学び、短期間のうちに藩内各地の詳細な測量図(田畑地続帳、因伯測量之絵図など)をつくって耕地整理や農政改革に生かしたといいます。田中さんは「忠敬の偉業に学ぶ鳥取藩の先見性と行動力には驚かされる」と、鳥取藩を高く評価しています。
 また、田中さんは忠敬の足どりや日記を調べるうちに、当時の県内の宿場町の姿もわかってきたといいます。伊能隊は物資が集散する橋津(湯梨浜町)や太一車など農機具開発が盛んな中河原(倉吉市)には、米子や鳥取と同じように3~4日も滞在し、それぞれの地区の庄屋や有力者と盛んに接触して、情報交換に努めていたとみています。「忠敬、鳥取を測る」には宿場町の配置や屋号なども書き加えられており、田中さんは「郷土史を知る教材としても使えるので、参考にしてほしい」と勧めていました。
 

田中精夫さん

伊能隊の足跡

伊能中図の鳥取藩(「忠敬、鳥取を測る」から)

田中さんが出版した「忠敬、鳥取を測る」

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