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安綱ゆかりの地・県中部編        伯耆国たたら顕彰会ほか

2019年12月15日

 日本刀の始祖とされる伯耆安綱とその一門のゆかりの地を訪ねるバスツアーの県中部編が12月15日にあり、農機具の稲扱き千歯や太一車などを生み出した県中部の鉄文化を学びました。20人が参加しました。
 倉吉市立図書館で山脇幸人館長から三朝地域のたたら製鉄の歴史を聞き、安綱一門が生産拠点にしたという倉吉市大原を訪ね、倉吉博物館で全国に販路を広げた倉吉千歯や米づくりに生涯を捧げた中井太一郎を学び、たたら製鉄が盛んだったという旧関金町奥滝を歩きました。
 県中部の製鉄・鍛冶遺跡は海岸部から山間部まで広範です。山陰道整備に伴って発掘調査が進んだせいです。浜や川や山砂鉄を利用して、鉄づくりが盛んだったことがうかがえます。山地や農地の開発・開墾、水路やあぜ道の整備に鉄が欠かせないからです。今回は訪問しませんでしたが、旧大栄町には反射炉跡や砲台跡もあります。戊辰戦争などで活躍した鳥取藩の大砲はここでつくられました。高度な鉄づくりの技術がありました。
 さて、県中部の鉄づくりの歴史です。山脇さんによると、中心だったのは天神川水系の上流、三朝町や旧関金町です。旧関金町の泰久寺や安歩地区で8世紀末~9世紀の鉄滓などが出ています。鉄山師の代表は穴鴨村(三朝町)の鉄屋安田茂右衛門家と湯関村(旧関金町)の久瀬(世)屋平兵衛家です。安田家は名和一族と姻戚関係がありました。名和一族とつながっていたのは奥日野の豪族・日野氏もそうです。湯関村の甚右衛門は海運を利用して北陸に鉄を売っていたという記録もあり、伯耆の鉄流通に名和一族が大いにかかわっていたことがうかがえます。
 天神川流域の鉄づくりは制約を受けて長く続きませんでした。原因はかんな流しで下流域が埋まり、しばしばはんらんを起こし、米づくりを阻害したためです。なにしろ天神川は源流から海まで32㎞しかありません。いつも急流状態です。ちなみに千代川は52㎞、日野川は77㎞です。
 県中部の鉄産業は素材生産というより、加工業が発達しました。なべ、釜、くぎをつくる鋳物師が活躍しました。農工具も発達し、奥日野の鋼を使った千歯や太一車をつくり、全国市場を席巻するとともに、県中部の農業技術や生産力を高めました。かつての倉吉が山陰を代表する工業都市になった原動力です。
 天神川流域のトマトの里・倉吉市大原には、安綱とその一門が刀づくりに励んだ伝承があります。眞守屋敷や鉄山屋敷、たたら窪などの地名も残っています。裏山には7世紀後半に建てられた大原廃寺跡(国史跡)があります。ガイドした県文化財局長の中原斉さんは「この大原に安綱一門がいたとすれば、この山寺で修行していたことでしょう」と紹介していました。

山脇幸人さん

大原廃寺跡の塔心礎をガイドする中原斉さん(右端)

倉吉千歯(倉吉博物館の関本明子学芸員から説明を聞くみなさん)

たたら場のシンボル・桂の古木のそばで参加者は記念撮影(旧関金町奥滝)

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