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不幸な歴史を繰り返すな           小山富見男さん

2019年11月24日

 境港市のしおさい会館で11月24日、「平和のための戦争展」があり、新鳥取県史編さん委員の小山富見男さんが「鳥取県の満蒙開拓の歴史」について講演しました。約60人が聴講しました。
 境港9条の会など6団体でつくる実行委員会(田中文也委員長)の主催。戦争の記憶を語り伝え、受け継ごうと毎年開いており、今年で6回目になります。境港の戦争にまつわる歴史を学習しながら、その成果を戦争展で発表しているもので、今年は境小学校や渡小学校の児童が境町の大半を焼失した「玉栄丸」爆破事件の調査を報告し、注目されました。
 小山さんは鳥取敬愛高校の教員時代、平成14年から6年もの歳月をかけて鳥取県民の満州開拓・移住の実態調査を行い、中国東北部各地を訪ねるとともに、元開拓者や引き揚げ者などから聞き取りして、平成23年に鳥取県史ブックレット「満蒙開拓と鳥取県」をまとめています。
 小山さんによると、鳥取県民の海外移住は明治時代から始まり、弓浜部からの北米移住が最初でした。やがて国策でブラジルや満州への移住が進められました。多くの日本人が、農業で一旗揚げようと夢を抱いて渡ったといいます。鳥取県民の満州移住は昭和9年ごろから本格化し、開拓団で1020人ほど、青少年の開拓義勇軍で2000人弱が組織化され、農業訓練を受けたのち、それぞれ土地を与えられ、満州各地に定着していったそうです。
 なかでも鳥取県の開拓義勇軍の組織化は特筆もので、人口に対する送出割合は日本一だったそうです。教育現場の役割が大きかったと言います。ただ、大陸に渡った多くの若者は、敗戦に伴う日本への引き揚げもままならず、地元住民やソ連軍からの襲撃に遭い、戦死したり、捕虜になったり、戦争孤児になるなど、悲惨な運命をたどりました。鳥取県からの開拓団のうち、引き揚げが確認できたのは450人ほどだったといいます。
 義勇軍参加を勧めた教師の一人は終戦後、こう証言しています。
「時代の流れとか、為政者の責任だとかいうのは卑怯である。全く私の不明の致すところであった。万死に値するものだと深く反省している」(県史ブックレット「満蒙開拓と鳥取県」から)。
 無事に帰還した鳥取県の義勇軍の人たちは、満州で亡くなった同志の霊を慰め、後世に伝えようと、湯梨浜町の東郷池畔に「拓魂之碑」を建てました。ここには260人の御霊がまつられています。湯梨浜町の大伝寺や鳥取市の長田神社にも同じく慰霊碑が建っています。
 小山さんは「満州開拓は若者だけでなく、多くの人の犠牲を伴った戦争の歴史です。不幸な歴史を繰り返さないためにも、後世に語り継いでいきましょう」と訴えていました。

小山富見男さん

地元の児童による平和学習の展示

東郷池畔にある「拓魂之碑」(湯梨浜町藤津)

鍬の柄を担いで渡満前に米子市内を行進する第4次満蒙開拓青少年義勇軍(「満蒙開拓と鳥取県」より)

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