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人生歌人、山上憶良        中永廣樹さん

2019年11月02日

 鳥取市の因幡万葉歴史館の万葉集講座が11月2日にあり、元県教育長の中永廣樹さんが「山上憶良の名歌」について話しました。中永さんの万葉歌人講座は大伴家持、大伴旅人に次いで3人目です。憶良は庶民や人間を詠んだ人生歌人で、現代人にも通じる心の持ち主だったようです。
 憶良(660-733年)は家持の父・旅人とほぼ同年代で、家持とは60歳ほど離れています。憶良が筑前国守時代、その上司に太宰府長官の旅人がおり、ともに筑前歌壇をつくって歌づくりを楽しみました。その時の梅花の宴の様子が万葉集に収められ、新元号「令和」の由来になりました。家持の歌づくりは、旅人や憶良から大きな影響を受けました。
 中永さんは万葉集研究家・中西進さんの著書「憶良の生涯」を紹介しました。それによると、憶良は白村江の戦で敗れた百済からの亡命者です。漢籍に優れ、遣唐使に書記官として派遣された際、唐の律令や建築技術書などをいろいろ読み下し、平城京遷都で実績を残したようです。これが評価されたのか、ついに貴族の仲間入りを果たし、57歳で伯耆国守となりました。
 時代がずれていたとはいえ、因幡には家持、伯耆には憶良、万葉歌人を代表する2人が鳥取県にいたことになります。しかも家持は759年の旧正月に因幡国庁で「祝い歌」をつくり、万葉集の巻末に収めています。憶良に伯耆国守時代の歌が残っていないのは残念ですが、石見国には宮廷歌人・柿本人麻呂もいたので、山陰は「万葉のふるさと」と言ってよさそうです。
 さて、憶良の歌です。中永さんは有名な「貧窮問答歌」を例に、長歌とそのエッセンスを歌った反歌を説明しました。貧しい人とさらに貧しい人の問答で、写実的な表現で貧しい暮らしと税の厳しい取り立てから、逃げ出したくても逃げられないと訴えています。その反歌が「世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」です。山陰や九州で見聞した農民の姿を歌っているのかもしれません。憶良晩年の73歳の作です。ひとこと言っておかねばの心境だったのかもしれません。
 中永さんは憶良の「男子名を古日といふに恋ふる歌」という長歌も紹介しました。子に先立たれた親心を歌ったもので、その反歌が「若ければ道行き知らじ賂(まひ)はせむしたへの使ひ負(お)いて通らせ」。あの子は若いから黄泉の国への行き方を知らない。礼をはずむから背負ってやってくれないか―。
 中永さんは併せて室生犀星の詩「靴下」も紹介しました。その一部です。「毛糸にて編める靴下をはかせ 好めるおもちゃをも入れ あみがさ、わらぢのたぐいをもをさめ 石をもてひつぎを打ち かくて野に出でゆかしめぬ」。1300年の昔も今も、変わらない親心を説きました。 

中永廣樹さん

「梅花の宴」の再現ジオラマ(古都太宰府保存会所有)

盛況の万葉集講座

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