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弥生の王国・青谷はすごい②     河根裕二さん・長谷川正昭さん

2019年10月26日

 一方、遺跡から出土した人骨群のDNA調査も進んでおり、これまでのところ青谷上寺地で暮らしていたのは、ほとんどが渡来人で、しかも多種族、いまの都会のように無縁の人々が行き交っていたということもわかってきました。それらの人々は、どこから集まって来たのでしょう。こちらの調査も続いており、全国の古代史ファンが注目するところになっています。
 青谷上寺地遺跡整備室で殺傷痕のある人骨や卜骨などを見学するとともに、出前講座「遺跡のいま、これから」を聞きました。それによると、令和元年度中に遺跡活用の基本計画をまとめるといいます。出土品を真似て生産道具をつくり、ものづくりや田畑体験などができるようにするほか、弥生王国アカデミーなどをつくって研究、学習のサポート体制を整えたい考えです。どのような施設ができるかは、もう少し先になりそうです。
 勝部谷のジオスポットなども訪ねました。溶岩台地から流れ落ちる、3つの滝がある不動滝めぐりは不通個所があって入れなかったものの、巨大な岩窟がある「子守神社」や急こう配の石段が特徴の「建山神社」は、それぞれ謎めいていて参加者を圧倒しました。
 スサノオノミコトをまつる建山神社は、創建608年という古い神社です。ここには鷲峰山と大山の背比べ伝説があり、背比べに負けた大山が腹いせに鷲峰山の頭を杓子ですくい取り、その土が落ちて建山と北栄町の袖振山をつくったという話です。かつて中国山地にあった火山が爆発し、溶岩になって流れ下り、大山より低い山になってしまったという話が形を変えて伝わっているのかもしれません。
 ガイドの長谷川さんによると、勝部地域は百済から渡来した勝部(すぐるべ)一族の里です。313年に青谷海岸にたどり着き、当時の原住民と争いながら徐々に支配力を広げたそうで、青谷上寺地とも関係があったのではないかと推理しています。「勝」は朝鮮語で村主(すぐり)と読み、鉄や絹織物などの生産に秀でていたということです。倉吉市には勝神社があり、大御堂廃寺ともつながりがあったともいわれています。果たして青谷とも関係はあったのでしょうか。
 青谷の日本遺産めぐりは、地質と歴史が存分に楽しめる内容でした。参加者は「青谷は奥深い。知らないことばかりで刺激的でした」と喜んでいました。

子守神社をガイドする長谷川正昭さん

国指定の重要文化財になった青谷上寺地遺跡出土品の数々

青谷上寺地遺跡から出土したヒトや動物の骨の数々

急な階段と石工・川六作の狛犬が出迎える建山神社

青谷平野の古代山陰道と古環境復元図(鳥取県埋蔵文化財センター作成)

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