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北米移住は弓浜から始まった        定岡敏行さん

2019年9月09日

 米子市の夜見公民館さわやか人生大学は9月9日、境港楽習会代表の定岡敏行さんを招いて国際理解講座を開き、鳥取県人の北米移住は弓浜から始まったことを学びました。
 それによると、それは上道村(境港市上道町)から始まったといいます。先導したのは小学校教員をしていた足立儀代松。1892年(明治25年)に職を辞して渡米したのがきっかけで、「カナダの実情を視察し、広大な国土と天与の資源が豊富なことを知り、日本人が発展すべき地だと確信して多くの青年に海外への雄飛を説いた」(境港市史)といいます。
 これに応じたのは14人。親兄弟の賛成が得られず、密航するかのように故郷を離れ、神戸港からカナダへ渡ったそうです。これを皮切りに毎年のように渡米団が編成されました。大正時代には鳥取県人のカナダ在留者は524人にのぼり、そのほとんどが弓浜半島の出身者でした。
 弓浜部から海外移住が多かったのは、貧困からの脱出だったといいます。自然の川がない弓浜半島ではサツマイモがつくられていましたが、江戸時代の半ばに農業用水路の米川が開削されると、戸数は5倍余りも増え、米や綿づくりが盛んになりました。ただ、明治時代になると外国から安い綿が入るようになり、養蚕業に転換したものの、生糸輸出の不振もあって、地域経済は混迷しました。
 この経済的な背景に加えて、浜ならではの進取の気風と精神的風土も見逃せません。境港は北前船などの交易港として開け、新しい知識や情報に触れる機会が多いうえに、農産物の作付け転換などに機敏に対応しなければならない土地柄だったことも、海外雄飛を促したようです。今の中学校に当たる弓浜高等小学校の教師たちは「長男は日本佐衛門として日本にとどまり、次男以下は世界佐衛門として海外へ雄飛せよ」と教えていたといいます。
 海外雄飛の人々を待ち受けていたのは、カナダではサケ漁や山林労働、南カリフォルニアではオレンジなどの収穫でした。異国の地でのゼロからの出発は困難を極めましたが、「浜のいも太」の粘りと勤勉性で北米社会に地歩を築いていきました。鳥取大火(昭和27年)の際には、多額の救援金を送ってきた人もいました。もちろん夢が果たせず、異国の土になった人も多くいました。
 日米開戦の時は敵性外国人として収容所に入れられて財産没収。2世は「2つの祖国」などで揺れました。戦後も再びゼロからの出発でしたが、1988年の「市民の自由法」(日系アメリカ人補償法)で、アメリカは国家として謝罪し、損害賠償をしています。定岡さんは「グローバル化する世界には戦火ではなく、協調と連帯がますます重要になっています」と訴えていました。

定岡敏行さん

足立儀代松

山林労働に従事する日本人移民

鳥取県人カナダ在留者数(大正期)

さわやか人生大学(夜見公民館)

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