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隠岐はかつて鳥取県だった        根平雄一郎さん

2019年6月19日

 米子市の福生西公民館で6月19日、ふれあい学級の歴史講座があり、境港歴史研究会代表の根平雄一郎さんが明治維新前後の鳥取藩について語り、隠岐は一時、鳥取県だったことを紹介しました。
 根平さんは維新前後、中海圏であった2つの事件を紹介しました。1つは1868年(慶応4年)2月にあった「山陰道鎮撫使事件」です(明治の改元は慶応4年9月)。
 新政府軍と旧幕府軍は1月3日、鳥羽・伏見で戦いますが、新政府軍は京都の背後を固めるため、西園寺公望を主将にする鎮撫使を山陰に派遣します。案内役を務めたのが日御碕神社(境港市渡町)の宮司・門脇重綾です。門脇は伯耆の松下村塾といわれた景山塾(主宰者・景山粛)の門下生で、郷土の忠臣・名和長年の事績「名和氏紀事」をまとめた人です。
 鎮撫使に対し徳川の親藩・松江藩は旗色を明らかにせず、不届きの処罰を受けることになりました。松江藩は家老・大橋筑後の切腹で幕引きを図ることになり、大橋は常福寺(安来市)に赴き、白装束に着かえましたが、そこへ「切腹無用」の太政官通達が届き、一命をとりとめました。門脇のとりなしと伝えられています。
 もう1つの事件は慶応4年3月にあった隠岐騒動です。松江藩預かりとなっていた隠岐島で、尊王攘夷派の志士に率いられた島民3千人が武装蜂起し、松江藩の郡代を退去させ、80日間住民自治を行った事件です。パリコミューン(フランス革命)の3年前、世界初の住民自治でした。
 この事件は太政官から隠岐支配の内示を受けた松江藩が藩兵を派遣し、鎮圧しましたが、島民側に同情する薩摩・長州・鳥取藩が仲介します。この時、鎮撫、調停で活躍したのが景山龍造です。景山粛の長男で医者、藩校・尚徳館の教授などを務めた人で、東京府知事になった松田道之や因幡二十二士事件のリーダー・河田佐久馬などを教えています。門脇重綾とはともに勉学した仲でした。景山の働きもあって、隠岐は明治元年11月に鳥取藩の管理下に置かれました。
 鳥取藩は明治4年の廃藩置県で隠岐も含めて鳥取県になりました。明治維新に功績にあった鳥取県でしたが、明治9年に鳥取県は島根県に併合されてしまいます。そして5年後の明治14年9月12日に再置されました。波乱万丈の明治時代でした。ちなみに廃藩置県で306あった道府県は中央集権化で漸減し、今の47都道府県になったのは明治21年でした。
 根平さんは初代県知事・山田信道の「脱却依頼心始為自治民」の言葉を紹介するとともに、「人口減少、超高齢化社会の日本で、果たして今の都道府県でやれるのでしょうか」と問題提起していました。廃県置州(道州制)や地方創生が問われています。

根平雄一郎さん(福生西公民館)

門脇重綾

脱却依頼心始自治民(山田信道筆)

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