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山陰最大の戦災          根平雄一郎さん

2019年5月29日

 境港市の境小学校(築谷直人校長)は5月29日、6年生の総合学習に境港歴史研究会の根平雄一郎会長(元境港市教育長)を招き、山陰最大の戦災とされる旧日本軍徴用船・玉栄丸(たまえまる)の爆発事件について学びました。6年生は広島市の修学旅行から帰ったばかりで、地元でもあった戦争の大被害に驚くとともに、改めて復興や平和に努めてきた先人に感謝しました。
 玉栄丸の爆発事件は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)4月23日にありました。境町の大正町岸壁で荷揚げ作業中、積んでいた火薬が4度にわたって爆発し、その爆風と火災で120人が死亡、309人が重軽傷を負い、倒壊焼失家屋は431戸、町の3分の1が壊滅しました。
 今から74年前、境小学校区であった事件です。当時、境国民学校と呼んでいた学校は臨時罹(り)災者収容所になりました。
 郷土史を研究する根平さんは、残された写真40枚をもとに、爆発事件の謎を追い続けてきました。戦後71年の2016年になって、やっと爆発前の玉栄丸の船体写真を手に入れ、新鳥取県史に掲載しました。また、爆発の原因は①ウインチ(巻き上げ機械)の摩擦②兵隊のたばこ③朝鮮人スパイ説―などが取りざたされ、長く「悲しい謎」とされてきましたが、2007年に関係者の証言で「兵隊のたばこ」が原因だったことが分かりました。さらに犠牲者は120人まで確認できたものの、玉栄丸には徴用朝鮮人の乗組員もいたので、犠牲者はもっといたはずといいます。
 根平さんはプロジェクターで、爆風と火災で壊滅した境町や爆発でできた境港駅近くの大穴などの写真を示すとともに、自警団で駆けつけて亡くなった遺族の証言を紹介しました。子どもたちは地元のこととあって、「あ、あそこだ」などと食い入るように映像を見、録音に聞き入っていました。
 ほとんどの子どもたちにとって、玉栄丸の爆発事件は初耳でした。「境港も広島のようなことがあったとは知らなかった。きょう学んだことはお父さん、お母さんにも伝えます」など、授業の感想を話していました。

根平雄一郎さん

授業風景

爆発でできた直径50mの大穴(写真後方は境港駅の倉庫)

今の境港(玉栄丸の爆発は巡視船がいるあたりで起こったという)

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