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鹿野の山に月をこそみれ          田中精夫さん

2018年11月12日

 鳥取市民大学の郷土歴史講座は11月12日夜、市文化センターであり、鹿野城主・亀井玆矩の大河ドラマ化を目指す田中精夫さん(鳥取県を舞台に! 歴史大河ドラマを推進する会共同代表)が安来市の大河ドラマ候補・山中鹿介と連携すれば、実現可能と力説しました。
 山中鹿介(1545~1578年)は勇猛果敢で山陰の麒麟児といわれ、主家尼子氏の再興を願って三日月に「願わくば我に七難八苦を与え給え」と祈った武将で、戦前は教科書に載るほど有名でした。その義弟が亀井玆矩(1557~1612年)です。豊臣秀吉の鳥取城攻めに加わって鹿野城を手に入れ、関ケ原の戦いでは徳川家康にくみして版図を広げ(3万8千石)、息子の政矩に家督を譲った後、鹿野で56歳で没します。亀井家は池田光政が因伯の藩主になったのに伴い、津和野に移りました。
 玆矩の地域経営は高く評価されています。新田開発に力を注ぎ、千代川左岸に大井手用水を通して良田をつくり、日光池や湖山池も干拓して石高を増やしました。古事記の素兎神話をもとに白兎神社を創建し、筑前から先達を招いて夏泊で海女漁を始めました。また、領内の60歳以上の老人を終日楽しませる、今どきの敬老会を開いているほか、奥日野・大倉山では銀山や鉄山経営をしたといいます。
 特筆されるのは朱印船貿易です。東南アジア諸国に刀剣や蒔絵などを輸出し、ちりめん、毛織物、ショウガなどを輸入しました。ショウガ栽培は今でも地域の特産品として受け継がれています。司馬遼太郎は「街道をゆく」で、「玆矩は戦国大名のなかでは奇跡の教養人。山間の小天地にいながら、広大な世界を思っていた。インド趣味があり、鹿野城を王舎城、鹿野城下を鹿野苑(ろくやおん)と呼んだ」などと書いています。
 もちろん玆矩も七難八苦の人生でした。秀吉の朝鮮出兵の際には、水軍で臨んだものの、朝鮮の李舜臣に船をすべて沈められたうえに、秀吉からもらった軍扇を奪われる始末で、九死に一生を得ました。関ケ原の戦いの後の鳥取城明け渡しでは、苦戦を強いられ、因幡13万石の恩賞手形をフイにしたりしました。
 玆矩の辞世の句は「秋風に雲間をいでし我が身にて、鹿野の山に月をこそみれ」です。「鹿介が主家再興を三日月に誓ったように、玆矩もその志を継いで、艱難辛苦の人生を生き抜き、鹿野にやっと理想の都をつくることができましたよ、と言っているのではないでしょうか」と田中さん。「鹿介―玆矩が連携すれば、面白い大河ドラマになるはずです」と自薦しています。
ちなみに、安来市の「山中鹿介の大河ドラマ放映を目指す会」では2009年から署名活動などを続けています。

 ※写真上:田中精夫さん

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